ソウルフルワールド
もともと何回も何回も作品を観直さないと感想というものが書けない人間なんですが、加えて内容の濃さ・深さに圧倒されて作品から感じたことの半分も形にできなかった文章がこちらです。
めちゃくちゃ書き直したんですがもうどんなに直しても納得しそうにないのでこれで区切りとする。
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「あーおもしろかった!」という感じではなく、じんわりと静かに余韻に浸る、そんな作品でした。
宇宙のシーンとか劇場でみたら圧巻だっただろうな。劇場公開されなかったのが本当に残念です。
生まれる前の世界というモチーフはそこまで目新しいわけではないですがメンターという設定が斬新で面白かったです。
ジェリーやテリーのキャラクターデザインもオシャレで好き。
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今作のキーである「きらめき」。
ソウルたちは万物の殿堂や自分の殿堂できらめきを見つけることで、生まれるための通行証を得ることができます。
個人的には「きらめき」は「感動」みたいな捉え方でいいかなと思いました。
きらめきを得るって、文字通り「感情を動かされる」ってことなんじゃないかと。言い換えるなら「ときめき」とかかもしれない。
ユーセミナーは生きる準備をする場所。
そしてそのユーセミナーで最後に見つけるのが「きらめき」。
何かしらに感情を揺さぶられることが、生きているって実感に繋がるのかな。
ユーセミナーできらめきを見つけ通行証を得るのには、感動できるかどうか=生きることができるかという試験的な意味合いがあるのかなと思いました。
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「俺のきらめきはピアノだ」と作中で述べるジョー。
ジョーはきらめきを「生きる目的」だと思っています。言い換えれば「夢」。
きらめき(夢)のために生き、夢を叶えることがいい人生だと思い込んでいる。
そして「きらめきとは特別である」とも考えています。
だから22番のきらめきを「そんなのただの日常だ」と否定するし、デズの店を出た後には「音楽と生活は世界が違う」とハッキリ言っています。
ジョーは音楽に関わる仕事に就いて生計を立てながらも、音楽は非日常であると発言しているんですよね。
これはジョーが「ミュージシャンとして成功すること="非日常"である」と思っているため。
大好きな音楽で食べている、という点は同じなのに楽団の教師という毎日はジョーにとって「きらめき」ではないんです。
ライブハウスで音楽を奏で喝采を浴びるきらびやかな世界はジョーにとっては「非日常」です。
だけど「成功したミュージシャン」たちにとってはそれはすでに「日常」なんですよね。
それがジョーが「海の中にいながら、海にいることに気付いていない」ということ。
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私はジョーのように熱くなれるものがパッと浮かばない人間なので序盤は「私のきらめきってなんだろう」と思ったし、画面の中で次々きらめきを見つけていくソウルたちを見ていると、すでに人として生まれていながら自分のきらめきを答えられない自分を否定されているように感じました。
だから22番が日常の「きらめき」に気付いたときは嬉しかったです。
食べること、風や落ち葉といった自然、人の営み。
それらは刺激的でも特別でもなかったから、地上の刺激的なものが集まる万物の殿堂や、特別な瞬間を集めた自分の殿堂では見つからなかったんですよね。
ごはんがおいしいとか、風が気持ちいいとか、音楽を聴いたらウキウキするとかが全部「きらめき」なら私にもあるって思えたんです。
序盤に「きらめきは感動」って書いたけど、もっと簡単に言うなら「幸せを感じること」じゃないでしょうか。
シナリオとして、22番がジョーの情熱に揺さぶられてジャズやピアノにきらめきを見出す展開にするのは簡単です。
ジョーのきらめきがピアノだったのは事実だし、ジョーは確かにピアノやジャズに幸せを見出していた。
でもそうなっちゃうと私みたいな「" 特別な何か "が見つからない人」が否定されちゃうんですよね。
映画の結論が「やっぱり夢を持つって素晴らしい!」になっちゃうから。
22番のきらめきが「ジャズ」ではなく「日常」だったことで少なくとも私は救われました。
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22番がみつけた「きらめき」をきっかけにジョーはそれまでを振り返り、22番と出会った直後は「むなしい」と評した自身の人生が幸せにあふれていたことに気が付きます。
確かにジョーのきらめきはピアノだけど、「きらめき」を感じるのはピアノだけじゃないことに気が付いたんですよね。
ユーセミナーで手にする「きらめき」は最初の一つに過ぎなくて、そして「きらめき」は一人一つじゃないと思います。
きっと22番も「日常」以外のきらめきを見つけられる。
きらめきは目的じゃない。
きらめきのために生きるのではなく、きらめきを日々感じることで人は生きている。
きらめきを感じられなくなってしまうと「迷える魂」になってしまうんでしょう。
日々の小さなことにも「きらめき」は溢れている。
偉大な何かや立派な誰かにならなくても「幸せ」にはなれるし、自分が幸せであればそれは「いい人生」なんじゃないかなという結論。