ディズニー映画感想

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ノートルダムの鐘

吹き替えキャストの歌唱力がみんな半端なくて、最初のクロパンの歌からまるで生の舞台を観ているかのような迫力。

とにかく吹き替え版の歌が聴いていて心地よいので、白雪姫に続きこちらも吹き替えでの視聴をすることが多いです。

ただ吹き替えは字幕に比べてだいぶマイルドな表現をされている(話自体がかなりヘビーなので私は字幕の重い表現が好み)ので日本語字幕を出しながら吹き替えで観るという鑑賞方法を取っています。



幼少期に観たときは途中で飽きてしまった記憶があるんだけど、内容考えたらそりゃそうだ…


▼カジモド

主人公ではあるもののキラキラしたヒーローではない。
その生い立ちから自己肯定感は低いものの、外の世界や一般の人たちの生活を羨ましいと思うなど嫉妬心もある。外に出たいと願いつつもいざ塔から出たときや出ることを迫られるときはいつも「駄目だ」「早く戻らなければ」と口にする。

▼フロロー

しょっぱなから悪役臭はまったく隠せていないのだけど、社会的な立場もあるし彼の暴虐はすべて正義の名のもとに行われている。
フロローに悪印象を持ってもその「嫌な感じ」の正体を理解するのは子供には難しいのではないのでしょうか。

個人的にディズニーヴィランズの中でもけっこう異質なキャラだなと思います。
それなりに自分は悪であるという自覚があるヴィランが多いなか、フロローは自分を「善」だと本気で思ってるんですよね。

精神的に追い詰めてくる「人間の怖さ」を体現しているのに善悪の判断が極端すぎて、作中の人物の中ではある意味で一番「人間らしくない」と思います。

▼フィーバス

大人になってから観たら魅力がわかったキャラ。
中盤からの彼は紛れもなく善人、味方ですが最初は「権力に逆らいきれない、ちょっと食えないやつ」という印象。

主人公(カジモド)からみれば協力こそしますがこいつは「エスメラルダといい仲になりそうなところに現れた恋敵」です。
主人公に感情移入しやすい子供からしたら「ヒロインと最終的にくっつくキャラ」のポジではない。「なんで!?助けたのカジモドじゃん!」となっても仕方ない。

でもフィーバスは最初から兵士やフロローには嫌悪感を示していたし、ペンダントの暗号についてカジモドと意見が分かれたときも争ってる場合ではない、と折れる。
彼の人との付き合い方はカジモドと比べてとても大人なんですよ。大人だから当然だけど。

カジモドがそういった点で幼いのは人との交流経験がないので仕方ないのですが、エスメラルダにとってカジモドは「友達」でフィーバスは「恋人」だったのはそこの違いが決定的だったんじゃないのかなぁ…
そう思うとやっぱりカジモド自身にはどうしようもないハンデが多すぎるよ…人間としての経験値が足りなすぎるよね…


エスメラルダ

ヒロインですがやってることはヒーローです。
登場シーンで早くも兵士を蹴り飛ばし、広場で晒しものにされるカジモドを助けてフロローを巻き込んだ大立ち回りを演じ、川に落ちた隊長も助ける。

見た目の美しさはもちろん、快活で権力に屈することなく自分に正直な彼女は作中で3人の男に惚れられることになりますが、男女問わず魅力的に映る人間でしょう。

「ジプシー」という存在についての具体的な説明が作中ではされないので、正義感あふれる行動をする彼女がなぜフロローに狙われるのかがわかりづらいのも子供時代には楽しめなかった理由かもしれません。


ガーゴイルたち

彼らについてはコメディ感が不要だと言う人もいるみたいですが、彼らがいなかったら重すぎてディズニー映画として成立しなかったのでは…と私は思います。

あと、彼らと話せるのはカジモドだけで周囲の人にはただの石像にしか写らないんですよね。
こういうと夢がないんですけど「実際に彼らはただの石像であり、動いたり話したりするのはカジモドの想像上のことである」と私は思っています。いわゆるイマジナリーフレンドっていうやつでしょうか。
「(空想上の)友人という形をとり、カジモドの本心を代弁すること」が彼らの役割です。

例えば祭りに参加すればいい、とカジモドに薦めるシーン。
「祭りに行きたい」「許されないことだ」「少しならバレない」という胸中での葛藤を、ガーゴイルとの対話という形でカジモドは行っています。

「祭りに行きたい」と思うこと自体をカジモドは悪だと信じ込んでいます。
そのため「行けばいい、バレなければ大丈夫」というのは「自身の発言、思想ではない(自分は反対したが、他者は賛成している)」と思い込むことで罪悪感を減らしたり自分を後押ししているのでは。

エスメラルダがカジモドに恋をしている、というシーンもそうです。
カジモドには「エスメラルダが自分に惚れたのでは?」という気持ちと「そんなわけがない、こんな醜い自分に」という気持ちが共存しています。
自分に自信がないカジモドですが、それでも認められたい気持ちはあるのでガーゴイルを通して自分で自分を肯定しているんですね。

この2つの葛藤は、一生を塔で孤独に過ごすのだと諦めていたカジモドが外の世界への期待を持ち始めたことを示しているのでは、と思います。

「外に出ようか、いや駄目だ」「あの子が僕を好き?そんなまさか」みたいなでもでもだってをカジモドが普通にやっていても絵的にも映えないし見てる側だって面白くないですから。

個人的には祭り見物に気が乗らないカジモドへかけられた「あの子は石じゃない」という言葉が刺さりました。
カジモドから自分自身に向けた「僕は塔の装飾のガーゴイル(塔から離れられない存在)ではない」という意味だと思います。


▼パリの暗黒期

パリへ帰還したフィーバスにフロローがかけた言葉。
フロローは主にジプシーたちが原因であるかのように言っていましたが、広場でのカジモドへの仕打ちをみると民衆全体の倫理観に問題があるように見えましたね。
まぁ魔女狩りだの処刑は娯楽だのフランス史には民衆の残虐さを感じさせる点はたくさんあるので仕方ないのかもしれませんが…

▼炎を見つめるフロロー

おそらくこの作品でもっとも恐ろしいのがフロローがエスメラルダの幻影に翻弄されるシーンとフロローのラストかと思います。(こじらせた童貞とか言ってはいけない)
フロローは別に屈強な男性や獰猛な獣ではないですが、エスメラルダに対しての執着が怖いんですよね。

エスメラルダが自分のものにならないのならば殺した方がまだマシだという執着心。
そしてジプシー嫌いの自分がエスメラルダに惹かれているのは彼女の魔術で惑わされているせいだと信じ込み、自身の殺意を肯定します。

上でフロローを人間らしくないと書きましたが、皮肉にも彼がもっとも憎んでいた「悪」に染まり切ったこのときが彼が一番人間らしいシーンでした。

そして神の存在を恐れたゆえにカジモドをここまで育ててきたフロローは、最終的にその神へ祈る場である聖堂にすら火を放ち自身を監視するガーゴイルを抱いて最期を迎えるんですね。

フロローの狂信的な正義感にしろ神の裁きにしろ「物理的には見えないが感じる圧」に対する恐怖を描くのは他ディズニー作品ではあまり見られないなと思います。


▼エンディング

原作はまったく救いがないらしいですがこれはディズニー映画なのでエスメラルダもカジモドも助かります。
ただしエスメラルダと結ばれるのはフィーバス。
これは主人公がヒロインとくっつかないのがディズニー映画らしくないとよく言われてますね。

でもこれでよかったんじゃないか。
作中、エスメラルダはフィーバスとはそれっぽい空気になっていましたがカジモドに対してはあくまでも「親愛」だったと思います。
それが最後にいきなりカジモドとくっついたら変ですよね。フィーバスとのあれはなんだったの!?ってなる。

塔から出れた!エスメラルダともくっついた!街の人からも受け入れられた!だとあまりにもできすぎてカジモドがプリンセスになってしまう。

あわや転落死するところだったカジモドとそれをキャッチしたフィーバスが抱き合った時点でもう二人は友達なんですよ。
カジモドは恋には敗れるもエスメラルダとフィーバスという友人を得たわけです。エスメラルダとカジモドがくっついてたら多分フィーバスとは友達にはなれないと思う。

民衆に受け入れてもらえたんだから、カジモドにも今後すてきな出会いがある可能性もある、くらいでいいんじゃないですかね。