ディズニー映画感想

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ミラベルと魔法だらけの家 字幕版感想

ディズニー+での字幕版感想です。
ミラベル〜、観れば観るほどあれは?あのときはこうだったんじゃ?って妄想が捗ってすごい…


アントニオに「一緒に来て」と言われたときのミラベル、怖かったよね。実際いちどは無理って断ってるし。

自分の人生で一番辛い記憶なのに、またあの場に立って歩いていったミラベルは本当に強い。
あの時点でもうお前特別だよ…普通できないよ…



「いつも一人ぼっち」という歌詞。
「ギフトがなくて本当は死ぬほど苦しい」「大丈夫じゃない」という本音を誰にも言えない、ということですよね。

同様に「プレッシャーに押しつぶされそうな恐怖」と「優等生という重圧」という本音を隠していた姉二人。

マドリガル家(少なくともフリエッタの三姉妹)はあんなにも大家族なのに、みんな一人ぼっちだった。
一人ぼっちだった彼女らを救った、ミラベル自身も。


ミラベルの両親。
最初はギフトがないことを再三言い含めてくるアグスティンに「ギフトがないんだから諦めろ」と言われているようで少しモヤっとするんだけど、観進めていくとフリエッタはすごく優しいお母さんなんだけどミラベルの本当の気持ちを理解している、という風には見えないシーンが出てくる。

多分、ミラベルのことも愛しているし母親であるアルマのことも愛しているから二人がうまくいくようにやんわりとミラベルにこうすべきだと促してくれてるんでしょうね。フリエッタは二人に仲良くしてほしいのよね。
でも私達はギフトがないからないなりに頑張ろうとしているミラベルを観ているので「ほしいのはその言葉じゃない」と思ってしまうんですよね。

逆にアグスティンは後半露骨にミラベルの味方をしてくれるのですごく頼もしいお父さんに見えてくる。


ルイーサ、「私は大丈夫」ってずっと言い聞かせてきたんだろうな…

ルイーサの力って鍛えてないと衰えてしまうものだったのだろうか?
それすらわからないから、どこまでも終わりの見えない筋トレを毎日「大丈夫、大丈夫」って言い聞かせながら続けてたのならつらすぎる…

序盤からルイーサはかなり頻繁に頼まれごとをされてるように見えたし、対応もかなり迅速なんですよね。何かやっててもすぐに呼ばれた方へ対応する。
「これ終わってからでもいい?」すら言えなくなってたのかな…


ふれちゃダメブルーノのときが特に顕著ですが、ペパが難しい顔していればいるほどフェリックスは笑顔だし、とにかく彼はペパを笑顔にすることにかけて隙がない。
雨の結婚式も笑顔で「楽しかったけど」と言ってくれる旦那さん、素敵だなぁ。息子のカミロにもそういうところは受け継がれているようですし。
アントニオを励ましたり庇ったり、お父さんとしても頼れる。

ペパはペパでコロコロと感情が変わるけどどうせ隠したってバレてしまうし、そのおかげで雲がさっと晴れると彼女の気分が明るくなったことがすぐわかって可愛いですよね。犬っぽいというか。
あの親子は彼女を中心に動いていて、まるで一家の太陽のような女性だなと思います。ペパ家のメインカラーが黄色で、かつ彼女はそれが顕著なのもそういうイメージなのかな。


イサベラは私の人生をぶち壊したことを謝って!と言うけど、その壊された人生ってイサベラが望んだ人生ではなく「エンカントのための、マドリガル家のための人生」なんだよね。

イサベラは、孫世代の中でもかなりアルマの思想を強く受け継いだ存在です。
家族のため、エンカントのためにという思いが強く、それは自分を押し殺して好きでもない相手との結婚すらしてしまおうとするほど。

「エンカントのためを考えるばかりにマドリガル家は家族の本当の幸せに気付けていない」ということを家族みんなが理解しないと崩壊は止まらないんですよね。
イサベラ本人が「家族のために無理をする」ということをやめるべきだと気付く必要があって、気付いたときにイサベラとミラベルは和解できる。

だからイサベラとミラベルのハグが奇跡を救う手段としてブルーノのビジョンに現れたんですよね。
家を救うためにはイサベラを救うことが必要不可欠なわけです。
ひいてはこのイベントが起きないとミラベルとアルマの口論が起きないので和解に繋がらない。

イサベラの本心もルイーサの不安も認めようとしないアルマとミラベルは対立し、ここでようやくミラベルは崩壊の原因と正面から対峙することになります。



でもそんなこと、あの一枚のビジョンからわかるわけねーよ!
ブルーノのギフトがいかに難解なものか、誤解されやすいものなのか。おじさん大変だったね…


ドロレスとマリアーノがくっついた経緯は字幕の方がわかりやすくてすんなりと受け入れられました。

ブルーノのこと、ずっと聞こえていたのに黙っていたほどに口の固いドロレス。 作中では意外なほど口数が少ないなと思っていたけどあえてだったんじゃないかな。
多分いろいろ聞こえるゆえに、あれ言っていいのかな、これ大丈夫かなとか心配してるうちに「余計なことは言わない」がスタンスになってあの喋り方なのかな…とか。

そんな彼女が作中一の勢いでまくし立てる愛の告白、最高ですね。


ラスト新居にみんなが家に入った後、扉の光がオレンジだけじゃなくなってる?
やっぱりアルマの奇跡からミラベルの奇跡に置き換わった、とわたしは解釈しています。

みんな生き生きしているけど、特にルイーサがハンモックでくつろいでるのがよかったね…
一家の中でも特に根詰めて働きすぎだと思っていたので、もっとのんびりして…息の抜き方を覚えて…


ブルーノおじさんにあまり言及してないのですが、おじさんはキーマンなこともあって作中で丁寧に描写されているので私が言うようなこと無いんですよね…
動物に慕われてるし心がきれいだし優しいしかわいいし今作のヒロインなんだなって
各キャラソロのキービジュあるけど、あのなかで一番かわいい顔してるのブルーノおじさんですからね

ミラベルと魔法だらけの家 初見感想

「ミラベルと魔法だらけの家」
吹き替え版初見時の感想です。
劇場で一度観たのみ時点での感想なので、繰り返し観た今とは少し違うところもあります。


▼ミラベルのギフト

個人的にはミラベルのギフトはやっぱりなかった。正確には与えられなかった、のだと思います。

そもそも「ギフト」はエンカントを作り上げた「奇跡」の一端、と考えてます。エンカントを維持するための要素というか。
そしてその奇跡が与えられたきっかけは祖父ペドロの行動。
彼が身を呈して守りたかったものは「家族の幸せ」です。

現在のマドリガル家はどうでしょうか。
祖母アルマはギフトの力で民に尽くすことが正しいと信じ、いってしまえば家族の気持ちより町の安定を優先しています。
ギフトや他者を重んじるアルマの教えの影響で、少なくともイサベラとルイーサ、ブルーノはギフトを持つゆえに苦しんでいますよね。

だから家はひび割れロウソクの火は尽きてしまった。ペドロが願った「家族の幸せ」はギフトの存在によって崩れてしまったからです。
ルイーサはプレッシャーに苦しめられイサベラは好きでもない男と結婚しブルーノは一人壁の中、では幸せな家族とはいえません。

靴を履くにも皿を出すにも魔法が使われていた魔法だらけの家をミラベルは魔法を使わずに再建しました。そしてドアノブにミラベルが触れたことで再び家に魔法が溢れます。
これはミラベルにギフトが授けられた、というよりアルマに起きた「奇跡」が今度はミラベルに起こったのだと思います。

以前の家はアルマが授けられた奇跡によって生まれたものでしたが、新しい家はミラベルが授けられた奇跡で生まれた家です。新しい家のロウソクはミラベル。

ブルーノのビジョンは間違いではありませんでした。家が崩れたとき、確かに一度「奇跡」は終わり魔法は消えたのです。

アルマからミラベルへ、祖母から孫へ。世代を超えて奇跡を受け継ぐ「家族」の物語。


▼「ギフト」ではない理由

個人的な感情ですがミラベルに与えられたものが「ギフト」でなく「奇跡」であってほしいのは「結局"持ってる"方がいいじゃん」という結論になってほしくないからです。

"持ってない"ミラベルがやり遂げることに意味がある話だと思うので、やり遂げたご褒美が「"持ってる側"にしてもらうこと」だとちょっとモヤモヤするんですよね。
「ソウルフルワールド」の感想でも書いた「持たないことは劣っていることではない」と似たような気持ち。

祖父がその身で家族の命を守ったように、ミラベルは家族の心を守りました。二人ともギフトなんて持っていない、ただの人間です。

ミラベルも祖父も共通して「"持たないもの"が頑張ったから奇跡が起きた」と私は解釈しています。


▼ミラベルの存在価値

ミラベルは家族の中で一人だけギフトがもらえないだけでもしんどいのに、それが理由でアルマとも距離ができてしまっています。
あの一家においてギフトがないことは恐ろしいこと。幼いアントニオでさえそれを理解しています。その当事者であるミラベルの胸中は計り知れない。

私だったら絶対卑屈になるし下手したらグレてる。私だけ血が繋がってないんじゃ?とか思うかもしれない。

でもミラベルは「すごい家族、素敵な家族」と軽快に歌います。
ミラベルの魔法は?と何度せかされても自分のことは決して歌わない、ギフトがないコンプレックスを強く感じていながらも「私"たち"はマドリガル」と自身も家族の一員であることは絶対に譲りません。強いよ。

ミラベルが家族写真に入れないシーン、本当にキツかった…アルマからの当たりがきついぶん、全編通して両親がはっきりとミラベルの味方であると示してくれていて本当によかったです。
魔法の心配ばかりのアルマに、僕はミラベルを思ってるんだ!と反論したアグスティンがすごく頼もしかった。

ミラベルは家の飾りつけから命を張った無茶に至るまで(ブルーノの部屋とか)いろいろ頑張っているのですがことごとくアルマに否定されてしまいます。
それでもミラベルは家族のために動くことをやめませんでした。ミラベルにとって「家族のため」は自分のためでもあるからです。

ギフトがないミラベルは家族の役に立つことでアルマに、家族に認めてもらおうとしています。
他の家族のように町の人の役に立てないから、家族を助けることで自身の存在価値を見出そうとしているんですよね。

「ミラベルと魔法だらけの家」は家族の絆のストーリーであると同時に、思春期の少女の成長話でもあります。

そしてこのミラベルの「特別な力はないけど何かを成す」って往年のクラシックプリンセスたちを思わせます。
明るく優しく腐らず、困難に立ち向かう姿は白雪姫やシンデレラに通じるものがあり、だから私はミラベルを「最近のディズニー主人公で一番好き」と感じたんだと思います。
私が大好きなクラシックディズニーの要素を、2021年にミラベルが持って生まれてくれたことが本当に嬉しいです。

▼アルマ

話のキーになるミラベルの祖母アルマですが、難しいキャラだなぁと思いました。

アルマの志は決して悪ではないんですよね。マドリガル家の家長でありながら町の指導者のような役割も持っています。背負っているものがとても大きいんですよね。

それはわかりつつもやはりアルマがミラベルにしてきたことに対して、和解がすんなりといきすぎて私はスッキリしませんでした。

アルマは「奇跡」こそ授かりましたがアルマ自身には特別な「ギフト」はないように思えます。
強いて言うなら家そのものがアルマに授けられたギフトというか。しかしアルマの奇跡によって出来た家は崩れ落ちてしまいます。

ミラベルに新しい奇跡がもたらされたことで生まれた新しい家でのアルマは「持たない側」の人間になるのではないでしょうか。
それは今までの、ミラベルの立場。

「持たない側」の苦しみを知るミラベルはアルマのことを今後も変わらず尊敬し敬い続けるでしょう。

「アルマを受け入れるか受け入れないかでだいぶ違う」と仰っていた方がいて、そのとおりだな、と。
私は一度みただけではアルマへのモヤモヤを解消しきれずにいます…


▼イサベラとルイーサ

本作を観ていて最初に不穏な気配を感じたのがルイーサの歌でした。

マドリガル家は魔法が使えて、特別で、みたいなことをさっきは言っていなかったか?

序盤からいろいろな頼み事をされてみんなの頼りになっている風だったルイーサの心の叫びは「これ、ただの明るい家族の絆ストーリーじゃないな」と思わせるには充分だった。

魔法が消える。マドリガル家で魔法=存在価値のような教育をされ、そのなかでも人一倍みんなから頼られていたルイーサだからなおさら恐怖が強かったんだろう。

イサベラはギフトがあるから、というか本人の立ち振る舞いによるストレスも大きかったと思うけどそれも「ギフトがある人間=マドリガル家の人間としてふさわしく」を突き詰めた末だったんだろうな。


家族のことを悪く言わないミラベルがイサベラとは相性が悪いと言っていたけど、イサベラからしたら自由奔放なミラベルが羨ましく腹立たしかったところもあるんでしょう。
ミラベルはギフトがないからマドリガル家らしくなくてもいい、立派で特別じゃなくてもいい、とイサベラは思っていたのかもしれない。

フリエッタの娘たちはみんな責任感、というか期待に応えよう、という思いが強いように感じます。
作中で語られた二人はもちろん、ミラベルも人の役に立ちたいと願っています。

おそらくミラベルにギフトがあったら姉たち同様、それを負担に思う日が来たのではないでしょうか。

突き詰めればアルマやブルーノも責任感ゆえにジレンマに陥っているようにみえるのでマドリガル家にはそういう気質があるのかもしれません。


そもそも考えてみたらギフトってデメリットもあるんじゃないのかなと思います。

イサベラやカミロのように自分の意思でギフトの効果を出したりしまったり出来るならともかく、ペパやドロレスのように自分の意思に関係なく発動してしまうギフトなら困ったこともたくさんあるのでは。

実際ドロレスは想い人が自分の従姉妹にプロポーズするという辛い状況を誰より早く知ってしまっているし。
ペパのギフトも、彼女は元来喜怒哀楽が激しいみたいですがイサベラのように本心を隠して振る舞いたい人に発現してしまったら大変。

あと各部屋って多分ギフトの発現時に作られるみたいですが、ある程度自分のギフトでアレンジとかしてるんでしょうか?
イサベラやアントニオの華やかなお部屋に対してブルーノおじさんのお部屋、あまりも酷じゃない…?

それなりにギフトの能力に寄ったお部屋なのかなと思うんですが、ルイーサとかカミロはどんな部屋なんだろう


魔法、家族、感動!で落ち着くのかと思っていたらとんだクソ重案件でびっくりしました。下手したら機能不全家族になりかねないよこんなの。

ノーと言えなかったり、誰かと比べられたり、劣等感に苛まれた経験がある人は想像以上のダメージを食らうかもしれない…
テーブルに描かれたブルーノおじさんのお皿のシーンとかゾワッ…ってなる

だけどディズニーだからちゃんとハッピーエンドにはまとめてくれています。怖くないよ
多分原語版だとまた雰囲気が変わると思うので字幕版を観れる日が楽しみですね(最寄りは吹き替えのみです)

ノートルダムの鐘

吹き替えキャストの歌唱力がみんな半端なくて、最初のクロパンの歌からまるで生の舞台を観ているかのような迫力。

とにかく吹き替え版の歌が聴いていて心地よいので、白雪姫に続きこちらも吹き替えでの視聴をすることが多いです。

ただ吹き替えは字幕に比べてだいぶマイルドな表現をされている(話自体がかなりヘビーなので私は字幕の重い表現が好み)ので日本語字幕を出しながら吹き替えで観るという鑑賞方法を取っています。



幼少期に観たときは途中で飽きてしまった記憶があるんだけど、内容考えたらそりゃそうだ…


▼カジモド

主人公ではあるもののキラキラしたヒーローではない。
その生い立ちから自己肯定感は低いものの、外の世界や一般の人たちの生活を羨ましいと思うなど嫉妬心もある。外に出たいと願いつつもいざ塔から出たときや出ることを迫られるときはいつも「駄目だ」「早く戻らなければ」と口にする。

▼フロロー

しょっぱなから悪役臭はまったく隠せていないのだけど、社会的な立場もあるし彼の暴虐はすべて正義の名のもとに行われている。
フロローに悪印象を持ってもその「嫌な感じ」の正体を理解するのは子供には難しいのではないのでしょうか。

個人的にディズニーヴィランズの中でもけっこう異質なキャラだなと思います。
それなりに自分は悪であるという自覚があるヴィランが多いなか、フロローは自分を「善」だと本気で思ってるんですよね。

精神的に追い詰めてくる「人間の怖さ」を体現しているのに善悪の判断が極端すぎて、作中の人物の中ではある意味で一番「人間らしくない」と思います。

▼フィーバス

大人になってから観たら魅力がわかったキャラ。
中盤からの彼は紛れもなく善人、味方ですが最初は「権力に逆らいきれない、ちょっと食えないやつ」という印象。

主人公(カジモド)からみれば協力こそしますがこいつは「エスメラルダといい仲になりそうなところに現れた恋敵」です。
主人公に感情移入しやすい子供からしたら「ヒロインと最終的にくっつくキャラ」のポジではない。「なんで!?助けたのカジモドじゃん!」となっても仕方ない。

でもフィーバスは最初から兵士やフロローには嫌悪感を示していたし、ペンダントの暗号についてカジモドと意見が分かれたときも争ってる場合ではない、と折れる。
彼の人との付き合い方はカジモドと比べてとても大人なんですよ。大人だから当然だけど。

カジモドがそういった点で幼いのは人との交流経験がないので仕方ないのですが、エスメラルダにとってカジモドは「友達」でフィーバスは「恋人」だったのはそこの違いが決定的だったんじゃないのかなぁ…
そう思うとやっぱりカジモド自身にはどうしようもないハンデが多すぎるよ…人間としての経験値が足りなすぎるよね…


エスメラルダ

ヒロインですがやってることはヒーローです。
登場シーンで早くも兵士を蹴り飛ばし、広場で晒しものにされるカジモドを助けてフロローを巻き込んだ大立ち回りを演じ、川に落ちた隊長も助ける。

見た目の美しさはもちろん、快活で権力に屈することなく自分に正直な彼女は作中で3人の男に惚れられることになりますが、男女問わず魅力的に映る人間でしょう。

「ジプシー」という存在についての具体的な説明が作中ではされないので、正義感あふれる行動をする彼女がなぜフロローに狙われるのかがわかりづらいのも子供時代には楽しめなかった理由かもしれません。


ガーゴイルたち

彼らについてはコメディ感が不要だと言う人もいるみたいですが、彼らがいなかったら重すぎてディズニー映画として成立しなかったのでは…と私は思います。

あと、彼らと話せるのはカジモドだけで周囲の人にはただの石像にしか写らないんですよね。
こういうと夢がないんですけど「実際に彼らはただの石像であり、動いたり話したりするのはカジモドの想像上のことである」と私は思っています。いわゆるイマジナリーフレンドっていうやつでしょうか。
「(空想上の)友人という形をとり、カジモドの本心を代弁すること」が彼らの役割です。

例えば祭りに参加すればいい、とカジモドに薦めるシーン。
「祭りに行きたい」「許されないことだ」「少しならバレない」という胸中での葛藤を、ガーゴイルとの対話という形でカジモドは行っています。

「祭りに行きたい」と思うこと自体をカジモドは悪だと信じ込んでいます。
そのため「行けばいい、バレなければ大丈夫」というのは「自身の発言、思想ではない(自分は反対したが、他者は賛成している)」と思い込むことで罪悪感を減らしたり自分を後押ししているのでは。

エスメラルダがカジモドに恋をしている、というシーンもそうです。
カジモドには「エスメラルダが自分に惚れたのでは?」という気持ちと「そんなわけがない、こんな醜い自分に」という気持ちが共存しています。
自分に自信がないカジモドですが、それでも認められたい気持ちはあるのでガーゴイルを通して自分で自分を肯定しているんですね。

この2つの葛藤は、一生を塔で孤独に過ごすのだと諦めていたカジモドが外の世界への期待を持ち始めたことを示しているのでは、と思います。

「外に出ようか、いや駄目だ」「あの子が僕を好き?そんなまさか」みたいなでもでもだってをカジモドが普通にやっていても絵的にも映えないし見てる側だって面白くないですから。

個人的には祭り見物に気が乗らないカジモドへかけられた「あの子は石じゃない」という言葉が刺さりました。
カジモドから自分自身に向けた「僕は塔の装飾のガーゴイル(塔から離れられない存在)ではない」という意味だと思います。


▼パリの暗黒期

パリへ帰還したフィーバスにフロローがかけた言葉。
フロローは主にジプシーたちが原因であるかのように言っていましたが、広場でのカジモドへの仕打ちをみると民衆全体の倫理観に問題があるように見えましたね。
まぁ魔女狩りだの処刑は娯楽だのフランス史には民衆の残虐さを感じさせる点はたくさんあるので仕方ないのかもしれませんが…

▼炎を見つめるフロロー

おそらくこの作品でもっとも恐ろしいのがフロローがエスメラルダの幻影に翻弄されるシーンとフロローのラストかと思います。(こじらせた童貞とか言ってはいけない)
フロローは別に屈強な男性や獰猛な獣ではないですが、エスメラルダに対しての執着が怖いんですよね。

エスメラルダが自分のものにならないのならば殺した方がまだマシだという執着心。
そしてジプシー嫌いの自分がエスメラルダに惹かれているのは彼女の魔術で惑わされているせいだと信じ込み、自身の殺意を肯定します。

上でフロローを人間らしくないと書きましたが、皮肉にも彼がもっとも憎んでいた「悪」に染まり切ったこのときが彼が一番人間らしいシーンでした。

そして神の存在を恐れたゆえにカジモドをここまで育ててきたフロローは、最終的にその神へ祈る場である聖堂にすら火を放ち自身を監視するガーゴイルを抱いて最期を迎えるんですね。

フロローの狂信的な正義感にしろ神の裁きにしろ「物理的には見えないが感じる圧」に対する恐怖を描くのは他ディズニー作品ではあまり見られないなと思います。


▼エンディング

原作はまったく救いがないらしいですがこれはディズニー映画なのでエスメラルダもカジモドも助かります。
ただしエスメラルダと結ばれるのはフィーバス。
これは主人公がヒロインとくっつかないのがディズニー映画らしくないとよく言われてますね。

でもこれでよかったんじゃないか。
作中、エスメラルダはフィーバスとはそれっぽい空気になっていましたがカジモドに対してはあくまでも「親愛」だったと思います。
それが最後にいきなりカジモドとくっついたら変ですよね。フィーバスとのあれはなんだったの!?ってなる。

塔から出れた!エスメラルダともくっついた!街の人からも受け入れられた!だとあまりにもできすぎてカジモドがプリンセスになってしまう。

あわや転落死するところだったカジモドとそれをキャッチしたフィーバスが抱き合った時点でもう二人は友達なんですよ。
カジモドは恋には敗れるもエスメラルダとフィーバスという友人を得たわけです。エスメラルダとカジモドがくっついてたら多分フィーバスとは友達にはなれないと思う。

民衆に受け入れてもらえたんだから、カジモドにも今後すてきな出会いがある可能性もある、くらいでいいんじゃないですかね。

王様の剣

駄作とかつまらないとか言われがちな作品ですが、そこまでひどくはなくない…?
最初に結論を述べると、確かに難点や粗はあるものの見てて退屈な作品ではなかったです。

アーサー王伝説の始まりという触れ込みとパッケージイラストからド派手な王道ファンタジー物語を期待して観ると「なんかちがうな」となってしまいます。

思い切って王だのなんだのという要素は重視しないで(それはそれでいいのか?と思うけど)「一人の少年の人間的成長」を描いた作品だと考えればそこまで悪い作品ではないんじゃないかなと思います。

地味だけど。


ザ・魔法!ザ・ファンタジー!って感じのマーリンの魔法や部屋の内装は大好きですね。
荷造りや皿洗いのシーンもメリー・ポピンズみたいで楽しいです。あと音楽も全編通して好きでした。安心のシャーマン兄弟です。

魚やリスの姿でじゃれるマーリンとワートは父と息子のようにも祖父と孫のようにも見えて微笑ましい。
ポストおこりんぼと呼びたいほどのツンデレアルキメデスもかわいい。

ただ、盛り上がりに欠けるという点はそのとおりでした。地味なんですよ。

アーサー王伝説の序盤部分(剣を抜いて王になるところまで)に過ぎないのでアーサー王伝説そのものや円卓の騎士などのかっこいい部分は作中では語られません。
そもそもなんであえてその部分を映画化しようとしたのか。次回作で続きを作る予定でもあったのでしょうか。

王様、剣、魔法という超豪華ファンタジー素材を並べておきながらマレフィセントみたいな派手なドラゴン退治とか一切ないです。

敵らしい敵といえばやたらとハイテンションな老婆。その老婆を倒すのも導き役の魔法使いのじいさんで主人公は見てるだけです。
作品全体の老人率が高いのも地味な原因の一つかもしれません。

退屈ではないけどストーリーにこれといった山場がないままエンディングになってしまいます。


主人公は少年ワート(本名はアーサー)。

竜や人食い巨人を退治したい、騎士になりたいけどなれないからせめて従者になりたいと名誉を求める。
マーリンいわく「なんでも力で解決する、遅れた中世」文化に疑問を持たない少年です。

そんなワートに「授業」を通して「知恵の大切さ」を説くマーリン。

知恵で勝つには工夫することが必要で、工夫するためには様々な知識が必要。
つまり見聞を広め、考えることで「頭を働かせる」ことが知恵で勝つためには大切なんですね。

マーリンの授業の中でワートは工夫することで自分より大きな魚に立ち向かうし、リスの姿では初めて向けられる「恋」に戸惑います。
新しいことを知るたびに、マーリンの教えは意義のあるものだと思い始めるワート。

今までは言いなりになっているだけだったエクターに立ち向かってマーリンを庇えるようになったのは「小さいものも工夫次第で大きいものに勝てる」という成功体験があるから。
言うまでもなく大きいもの=エクター、小さいもの=ワートです。
今まではワートのなかで絶対的強者であったエクターはもう、勝ち目のない相手ではなくなっているんですよね。工夫すれば勝てるかもしれない相手です。

そして「正しいのは自分だけ?」というセリフは弱者が強者に打ち勝つ可能性が見えてきたことで「強者は正しい」という中世の常識にワートが疑問を感じ始めたことの表れ。
マーリンの教え、ちゃんと伝わっています。

個人的にはここが一番テンション上がる場面でした。王様の剣の山場はここです(諸説あります)

今作のヴィラン、マダム・ミム。
スカーやファシリエみたいなかっこいいやつではありませんがしっかり曲も持っています。

いい意味でローカル感がすごい。
崇高な理想や願望があるとかじゃなく、ただ嫌がらせしたい怖がらせたいというチープさ(褒めてます)。

一歩間違えば水木しげる作品と紙一重とも思えるキモカワのギリギリを攻めたデザイン、服が絶妙にダサいのも高ポイントです。トランプの柄に合わせてケンケンパするのはちょっとかわいい(笑)

ワートに「こうなりゃ死んでもらうしかないね」と言っていましたが本当に殺す気があったのか…?ただ追いかけ回して怖がらせたかっただけでは?とさえ思ってしまうほど、マーリンとのバトルもどこかゆるい。教育テレビか?
病気にするという倒し方もだし結局とどめはさしてないしでマーリンとミムは仲良く喧嘩しな、な二人なのか。

ワートとの「もっと醜い顔にもなれるんだよ」「それ以上無理だ…いえその」はもはやコントです。
変身もめちゃくちゃいっぱいしてくれてサービス精神旺盛。


マーリンがワートの従者昇格にブチ切れてバミューダに行っちゃうのはなんか唐突だなぁと思いました。
従者で満足せず王の座を目指してほしいというのはわかるんだけど、そんないきなりバミューダに家出するほど怒りマックスになる?ワートが勉強するって言い出すまではあんなに根気強かったのに。

更に言うならここからライター変わったのか?ってくらい雑な部分がどんどん出てきてそのままエンディングになっちゃうんですよね…

しかもワートはこのとき「従者になれただけでも運がいい」って言っています。
この時点で王になる気ゼロ発言なのに3分後には剣抜いてるし更にその3分後にはアーサー王万歳!って言われてるんですよ。ワートの気持ちついていかないよ。


ちなみにワートが従者クビ宣告をされたときにマーリンが「ワシのせいでロンドン行き台無しに…」って謝ってましたが、ワートはぶっちゃけ序盤の狩りのシーンから始まってたびたびドジを発揮しており(最後も武芸大会に剣を忘れる失態を犯す)普通に従者にしたくない人材なのであんまり気にすることないと思う。

オオカミからも助かるしライバルはおたふく風邪になるしそもそも予言で王になってるのでめちゃくちゃラッキーなドジなんでしょうねワートって。



話を戻して、一応ワートの擁護をすると現状のワートは相も変わらず下働きで従者にならないと開催地のロンドン行きすらままならない。それはマーリンもわかってるはずでは?
ケイの従者になる以外にもロンドンへ行く方法があるとか、ロンドンへ行かずとも王になれる方法があるとかマーリンが促しているならまだしもそういう風でもない。

ワートが王になることを信じて疑わないマーリンからすれば「従者で満足するなんて。向上心を持て」と思うかもしれないけどワートは未だ自分が王になるなんて信じられる段階ではないので…

ワートの「どうしろっていうのさ」に全力で同意してしまいました。
マーリンは「知っている側」ゆえに「知らない側」の人々を置いていきがちです。

マーリンと喧嘩別れ(?)したまま、武芸大会のためロンドンへやってきたワート。
ここからスピード展開でエンディングを迎えます。

この作品の評価がイマイチになりがちなのはマーリンバミューダ行きからエンディングにかけての唐突さと、王位を望んでいないワートが王になって終わるモヤモヤ感だと思う。

剣もあまりにあっさり抜けてしまうし…ちょっとスポットライト出て豪華な音楽は鳴ったけど…
知恵を使うどころか剣忘れるというドジしてましたが…
好意的に捉えるなら「知恵は今後のアーサー王伝説編で使うアイテムなので剣を抜くのに知恵はいりませんでした」とかかな…

というか一度抜いた伝説の剣を戻すのはアリなんですか?

ワートを王と認めたエクターに促され、ケイが頭を下げるシーン。
ケイって顔がアレだし品もないけど(失礼)めちゃくちゃ悪いやつってわけじゃないよなと序盤から思っていました。文句言いながらもワートを狩りに付き合わせてくれるし(恐らく何度もワートのドジで狩りを邪魔されてるのに)

言動こそ乱暴ですが、ケイもワートと同じ時代に生まれた人間であるがために力こそすべてという思想に染まっているだけでケイ個人の思想が暴力的というわけではないと思います。

エクターに厳しい修行を課されたときには傷付きながらも逃げ出さず取り組んでいました。卑怯な手を使って勝とうとした描写もありません。
ガサツですが、努力できる人間でもあるのは確かです。

努力の成果を発揮するチャンスすらなく、見下していたワートが目の前で王位をかっさらっていく心情はいかなるものか。
あのいろいろな感情を飲み込んだような表情はなんともいえませんでした。

騎士になることすら諦めていたのに王になってしまったワートは玉座から逃亡することまで考えていました。
伝説の剣抜いて王様になったのにこんな嫌そうなことある?

最後はマーリンが戻ってきて、ワートもマーリンがいるなら、と王になる決意をしたみたいですが「えっこれで終わり?」感が消せないラストでした。ワートはそれでいいの?

途中途中の楽しいシーンもこのエンディングの雑さで相殺されプラマイゼロ、みたいなのが本作の感想です。

つまらなくはないんだけど、オチがスッキリしないんだよね…


ちょっとアレなエンディングになってしまいましたが褒めるところが一つもないわけではないです。

物語の最後に「アーサー王となったワートは数々の伝説を残すのです」みたいなナレーションがあったらもう少し"終わり"感が出たと思うんですがこの場合だと野暮ったさがすごい。

そこでその「終わりの言葉」の役目を受け持っているのがマーリンの最後の「これから君は伝説になる、映画にもな」というセリフなんですよね。

エンディング時点のワートはとても伝説のアーサー王とは呼べません。玉座から逃げ出したいくらいですから。
でもマーリンの言うとおり、伝説のアーサー王になるのは「これから」です。

前日譚を締めるには良いセリフではないでしょうか。


王様の剣
好きか嫌いかで言ったら絶対に嫌いではないしつまらなくないのに盛り上がりに欠けるという不思議な作品でした。

ソウルフルワールド

もともと何回も何回も作品を観直さないと感想というものが書けない人間なんですが、加えて内容の濃さ・深さに圧倒されて作品から感じたことの半分も形にできなかった文章がこちらです。

めちゃくちゃ書き直したんですがもうどんなに直しても納得しそうにないのでこれで区切りとする。


「あーおもしろかった!」という感じではなく、じんわりと静かに余韻に浸る、そんな作品でした。

宇宙のシーンとか劇場でみたら圧巻だっただろうな。劇場公開されなかったのが本当に残念です。

生まれる前の世界というモチーフはそこまで目新しいわけではないですがメンターという設定が斬新で面白かったです。
ジェリーやテリーのキャラクターデザインもオシャレで好き。


今作のキーである「きらめき」。
ソウルたちは万物の殿堂や自分の殿堂できらめきを見つけることで、生まれるための通行証を得ることができます。

個人的には「きらめき」は「感動」みたいな捉え方でいいかなと思いました。
きらめきを得るって、文字通り「感情を動かされる」ってことなんじゃないかと。言い換えるなら「ときめき」とかかもしれない。

ユーセミナーは生きる準備をする場所。
そしてそのユーセミナーで最後に見つけるのが「きらめき」。
何かしらに感情を揺さぶられることが、生きているって実感に繋がるのかな。
ユーセミナーできらめきを見つけ通行証を得るのには、感動できるかどうか=生きることができるかという試験的な意味合いがあるのかなと思いました。

「俺のきらめきはピアノだ」と作中で述べるジョー。

ジョーはきらめきを「生きる目的」だと思っています。言い換えれば「夢」。
きらめき(夢)のために生き、夢を叶えることがいい人生だと思い込んでいる。

そして「きらめきとは特別である」とも考えています。
だから22番のきらめきを「そんなのただの日常だ」と否定するし、デズの店を出た後には「音楽と生活は世界が違う」とハッキリ言っています。

ジョーは音楽に関わる仕事に就いて生計を立てながらも、音楽は非日常であると発言しているんですよね。

これはジョーが「ミュージシャンとして成功すること="非日常"である」と思っているため。
大好きな音楽で食べている、という点は同じなのに楽団の教師という毎日はジョーにとって「きらめき」ではないんです。

ライブハウスで音楽を奏で喝采を浴びるきらびやかな世界はジョーにとっては「非日常」です。
だけど「成功したミュージシャン」たちにとってはそれはすでに「日常」なんですよね。

それがジョーが「海の中にいながら、海にいることに気付いていない」ということ。


私はジョーのように熱くなれるものがパッと浮かばない人間なので序盤は「私のきらめきってなんだろう」と思ったし、画面の中で次々きらめきを見つけていくソウルたちを見ていると、すでに人として生まれていながら自分のきらめきを答えられない自分を否定されているように感じました。

だから22番が日常の「きらめき」に気付いたときは嬉しかったです。

食べること、風や落ち葉といった自然、人の営み。
それらは刺激的でも特別でもなかったから、地上の刺激的なものが集まる万物の殿堂や、特別な瞬間を集めた自分の殿堂では見つからなかったんですよね。

ごはんがおいしいとか、風が気持ちいいとか、音楽を聴いたらウキウキするとかが全部「きらめき」なら私にもあるって思えたんです。

序盤に「きらめきは感動」って書いたけど、もっと簡単に言うなら「幸せを感じること」じゃないでしょうか。



シナリオとして、22番がジョーの情熱に揺さぶられてジャズやピアノにきらめきを見出す展開にするのは簡単です。
ジョーのきらめきがピアノだったのは事実だし、ジョーは確かにピアノやジャズに幸せを見出していた。

でもそうなっちゃうと私みたいな「" 特別な何か "が見つからない人」が否定されちゃうんですよね。
映画の結論が「やっぱり夢を持つって素晴らしい!」になっちゃうから。

22番のきらめきが「ジャズ」ではなく「日常」だったことで少なくとも私は救われました。

22番がみつけた「きらめき」をきっかけにジョーはそれまでを振り返り、22番と出会った直後は「むなしい」と評した自身の人生が幸せにあふれていたことに気が付きます。

確かにジョーのきらめきはピアノだけど、「きらめき」を感じるのはピアノだけじゃないことに気が付いたんですよね。

ユーセミナーで手にする「きらめき」は最初の一つに過ぎなくて、そして「きらめき」は一人一つじゃないと思います。
きっと22番も「日常」以外のきらめきを見つけられる。

きらめきは目的じゃない。
きらめきのために生きるのではなく、きらめきを日々感じることで人は生きている。
きらめきを感じられなくなってしまうと「迷える魂」になってしまうんでしょう。

日々の小さなことにも「きらめき」は溢れている。

偉大な何かや立派な誰かにならなくても「幸せ」にはなれるし、自分が幸せであればそれは「いい人生」なんじゃないかなという結論。

白雪姫

私の視聴回数ベスト3に入るであろうディズニー映画「白雪姫」。
子供の頃から何度も何度も観てきました。どこを観ても楽しい。こんなに楽しいシーンばかりの映画そうそうない。

英語に字幕で観る作品がほとんどなのですが「白雪姫」は吹き替えで観ることが多いです。
昔から吹き替え版を繰り返し観ていた親しみもありますが、白雪姫の吹き替えをされている小鳩くるみさんの声が本当に可愛らしい。
女王と物売りも同じ方が演じられていると知ったときはあまりの違いに驚きました。崖下に落ちていく物売りの悲鳴なんて…声優さん本当すごい。

そんなわけで大好きな「白雪姫」めちゃくちゃ長くなってしまいました。


▼オープニング

まずあの本を開いて始まるオープニングがめっちゃ好きなんですよね。
どんどん装丁が豪華になって「眠れる森の美女」の頃にはゴテゴテになってるアレです。
中身のページもキラキラかつ凝ったデザイン。

そして、歴史あるディズニー長編映画のなかで誰よりも先に登場したのは白雪姫ではなくヴィランである女王。

白雪姫が掃除をするシーンから始まり王子と出会う、それをみた女王が鏡へ問いかけるという流れでもストーリーは成立します。
でもお話の始まりは女王で、実際その方が面白いですよね。こう感じるのはきっと女王がヴィランとして魅力ある存在だからだと思います。

ディズニーヴィランは悪役ですが決して嫌われ役ではないです。むしろ主人公よりヴィランが人気なのではという作品もあります。
主人公から悪役に至るまで魅力的なキャラクターを、存在意義を、という姿勢を感じます。


▼「白雪姫」のゴール

「ワン・ソング」では白雪姫が口づけた鳥が王子のもとへ飛び立ち、王子に口づけします。
開始10分足らずで二人はもう両想い、結ばれているんですよね。
「白雪姫」におけるラブロマンス的な部分はこの時点でほぼ完成しているんです。

結末が「王子様と幸せに暮らしました」なので勘違いしがちですが「白雪姫」が絶対にたどり着かなければいけない結末は「王子との結婚」ではなく「女王を倒す」なんですよね。
白雪姫に迫る危機は「女王の嫉妬」。
王子と結婚したって女王を倒さない限り白雪姫の安全で幸せな未来は約束されません。

「白雪姫」のメインは恋物語ではなく魔女退治の英雄譚、白雪姫が幸せを掴むまでの冒険譚なのだと私は思います。

王子様との結末がいらないわけじゃないですよ!
このラストだからこそ、ハッピーで感動的で世界中に愛される話として完成されたのですから。
魔女を倒しても白雪姫が死んだままじゃ救いがなくて、子どもたちに読ませる童話としては受け入れられなかったでしょう。

王子様との最後のやりとりはハッピーエンドにつながる大事な部分ではあるのですが、ハッピーエンドにこだわらなければ「魔女を倒した」ところで終わっても話は成立します。
王子と白雪姫が再会しなくても話は完成しますが、魔女を倒さないと話は終わりません。
魔女が魔法の鏡に美しさを問い続ける限り白雪姫は狙われるでしょうから。

『森に逃げ込んだ白雪姫は魔女には運良く見つからず、王子様と再会し幸せに暮らしました。』じゃつまらないですよね。

「物語」としての面白さを追求したときに外せないのはどちらか、となったときに優先されるのが「王子様との恋物語」より「魔女退治」なんですね。


▼白雪姫の運命が変わるとき

白雪姫といえば幼少期のトラウマ、ディズニー屈指の恐怖映像との呼び声も高い森の中を逃げ惑う場面は有名ですが、私は幼少期から今もこのシーンがめちゃくちゃ好きです。

ボロを着ていたとはいえお姫様として城で暮らしていた少女が城を追われ、頼るあてもなく身一つで森へ放り出される。
あの畳み掛けるような恐怖演出の数々は「なぜ、これからどうしたらいいの」という白雪姫の絶望で、ジェットコースターのような疾走感が白雪姫の運命の激変を思わせます。

さっきまで王子と愛を交わしていた白雪姫が何もかもにおびえる姿は、物語の雰囲気もガラッと変えました。
あのシーンのドキドキには恐怖と同時に「物語が動き出す」という期待が含まれています。


▼プリンセスたるゆえん

一人泣いていた白雪姫ですが動物と出会い「大騒ぎしてごめんなさい」「あんなに怯えて恥ずかしいわ」と言います。
怖い思いをしたにも関わらず、森の動物たちへの非礼を侘びて取り乱した自分を恥じるんです。これぞロイヤルの心。

ひとしきり不安を吐き出した後は「困ったときはどうすれば?」「歌うのね!」と現状打破を目指す白雪姫。
明るく優しく、くよくよしない。前向きに明るい未来を信じる。シンデレラやベルにも共通する、プリンセスの鑑です。
白雪姫は生まれついてのお姫様なので、正に血筋も心も揃った「正統派プリンセス」なんですよね。

「待っていただけ」「運がよかっただけ」とクラシックプリンセスを批判する人がいますが、この時点で現状を悲観し腐らない芯の強さがなければこの先の白雪姫の幸せはありません。
ただメソメソ泣いているだけの白雪姫を動物たちは小人の家へと案内してはくれませんから。

最近のプリンセスやヒロインのような物理的な強さはなくても、クラシックプリンセスたちには精神的な強さがあります。
希望を捨てずにいる、ということは言うほど簡単ではないと私は思います。


▼いい意味での王族らしくなさ

白雪姫が動物たちと一緒に小人の家を掃除する「口笛ふいて働こう」のシーン。ここもとても楽しいですよね。
クモの巣だらけになったリスのしっぽをこのあとどうするんだろう…と少し心配したりした幼少期(笑)
亀の甲羅で洗濯するのに憧れて、母親に頼んで洗濯板で自分のシャツを洗った記憶があります。

白雪姫は掃除をするきっかけとして「お掃除したら泊めてくれるかもしれない(※字幕)」と発言しています。(吹き替えでは「お掃除すればきっと喜んでくれるわ」)

上で白雪姫を「正統派プリンセス」と評しましたが王族キャラにありがちな「よくしてもらって当然、やってもらって当然(対価を払うことを知らない)」というのが白雪姫には一切ないんですよね。
ラマになった王様」のクスコはパチャが城まで送ってくれて当然と思っていました(まぁ彼は極端に駄目な王族というキャラ付けでしたが)

生まれながらの王族というと「アラジン」のジャスミンがいますが、ジャスミンはその育ち故に屋台の果物を対価を払わず手に取り泥棒として追われるという展開になっています。

白雪姫は何かを得るためには対価がいる、そして自分が提供できるのは家事という労働力であるということを理解し、当たり前に実行しています。ついさっきまで城住まいだった王族が。
高貴な者としての振る舞いを心得ながらも一般市民の感覚も有する白雪姫は「理想の王族」といえるかもしれません。

絶対いやですが白雪姫が「我王族ぞ?泊めてもらって当然」「掃除?したことない。パイ?作ったことない」というキャラだったら多分小人の家には滞在できず森に放り出されるでしょう。
女王の嫌がらせが図らずも白雪姫を救ったと言えなくもないのが皮肉です。


▼小人たちあれこれ

白雪姫で、ディズニー楽曲でもかなり有名な「ハイ・ホー」。
VHSの吹き替えでは「仕事が好き」と歌っていたのですが、実際は「定時ださぁ帰ろうぜ(意訳)」みたいな歌詞だと知ったときは驚きました。めちゃくちゃ仕事好きなんだと思ってた。

宝石の採掘シーンは本当にキラキラで素敵です。先生が投げ捨てるクズ石も綺麗なのでもったいないなぁと思ってました。
おとぼけが目にダイヤをはめるシーンはみんな好きだよね?
意味のないカギとか、登場直後からおとぼけは只者じゃない感がすごい。

白雪姫を怪物だと思ってひと悶着あるシーンや手洗いなど小人の家でのシーンはディズニーの本領発揮といわんばかり。

手洗いのシーンでせっけんが口に入る直前のおとぼけの四つん這いの姿は「ミッキーのハワイ旅行」でのプルートとカニの戦いを彷彿とさせますね。
ヨーデルの最後、くしゃみによって天井に打ち上げられて梁の上で耳をパタパタさせるのはダンボそっくり。
(「白雪姫」はディズニー映画の祖なので「後発映画の方が白雪姫のあのシーンをオマージュしている」と言ったほうが正しいのですが)

一つの作品から複数の作品に繋がる要素を見つけられる、ディズニーのそういうところが好きです。

そして「小人たちのヨーデル」でおこりんぼが弾いているオルガンもですが、めちゃくちゃ気になるあのイス。
そのアコーディオンみたいなイスなに!?おしりめっちゃ柔らかくない!?いやでもケツ筋すごいだろうな!?

小人はそれぞれみんな魅力的です。
しっかりものと見せかけて意外と抜けてるお調子者な先生から始まり、てれすけの「俺…照れちゃう〜!」とくしゃみの「どうも…」は本当にかわいい。
おとぼけがねぼすけのヒゲから顔を出すかわいいシーンも2回あるんですよね。おとぼけとねぼすけのゆるゆるコンビで何かしてほしい。
そしてとにかくコミュ力おばけのごきげん、気のいい知り合いのおじさんって感じでとても好き。
おこりんぼについてはこの後怒涛のおこりんぼのターンがくるから!

おこりんぼ、やたら「女め」「女が」「女は」と言うのがガンダムWの張五飛を思い出して笑ってしまう。ごめん。

ヨーデルの後「親切にしてくれたお友だちをお守りください」と願う白雪姫。白雪姫にとって小人たちはお友だちなんですね。命の恩人とかでなく「お友だち」という表現、いい。
「おこりんぼに好かれますように」という願いにキュンとします。安心して!もう大好きだから!!


▼カットされた名曲

小人の家にきた白雪姫はスープを作っていたのにそのスープを食べるシーンはありません。

「ミュージック・イン・ユア・スープ」という曲がそのシーンにあたり、アフレコ済で映像もかなり出来上がっていたのですが話の流れが悪くなるとのことでカットされてしまったそう(ディズニー+配信「白雪姫 魔法の秘密」より)
wikiには小人たちのスープの食べ方があまりに行儀が悪く好ましくないと判断された、と載っていました。ひどい理由だ。

まぁ手は洗わない洗い物はしないテーブルに飛びかかってパンの奪い合いをしていた彼らがスープを飲むときだけお行儀がいいわけはないよね…

家にあったVHSには未彩色の映像が特典として収録されていたので幼少期はそれを繰り返しみていました。
ディズニー+で視聴しているとそのシーンがないことに違和感を感じるレベルで観ていたのでカットシーンであることが残念です。

販売年によってはDVDにも収録されているものがあるようです。「白雪姫」自体すでにパブリックドメイン化しているのでネットにも落ちているかもしれませんね。


▼トラウマシーンその2

女王から物売りへの変身薬を作り変身するシーン、そして毒リンゴを作るシーン。
こちらもトラウマと呼ばれるものですがやっぱり私は大好き。
地下への階段を降りる女王のガウンが翻る様が本当に美しく、本当に長編手描きアニメの祖なのか…?と疑わしい完成度。

そういえば女王も自分の地下秘密基地に水路準備してるんですよね、ラマ王のイズマ様と気が合うのでは?

女王が毒リンゴの作り方を調べる本、ディズニー作品はいちいち本のデザインが素敵すぎるよ…1/1でレプリカ出して…

化学実験みたいな装置もたまらん。パーク内の研究室とかも大好きなんですよね。
手を加えるたびに色が変わり煙が出て泡が湧き出す変身薬はあんな姿になるのに「飲んでみたい…」と思ってしまった。
毒を染み込ませた後のリンゴの方が美味しそうな色になるのがなんとも。

いざリンゴを売りにゆかんとする物売りの「生き埋めじゃ〜〜!!」というセリフが生き生きしすぎている。大好き。

そして城を出た物売りを、物言わぬハゲタカがずっとつけ回してるのが不穏な空気ビンビンでたまらないですよね…


▼運命のとき

仕事に出かける小人たち一人ひとりを見送る白雪姫。
何度も並んじゃうおとぼけもですがおこりんぼのかわいさよ…木にはぶつかるし小川には落ちるし橋に頭はぶつけるし…全部白雪姫が気になっちゃうからですよね…尊い

留守番中の白雪姫がパイをつくるシーンも大好き。
はみ出た生地をカットするところの柔らかさ、小鳥が足で模様をつけるところ。
ディズニーの描くスイーツが好きなのですが(アリスのクッキーとか)白雪姫にはあまり食べ物が出るシーンがないのでこのシーンは貴重です。

幼少期には最後に生地で書いた言葉がなんなのかわからなかったんですが成長してから「おこりんぼ」と書いてあると知り、もう…もう…!!

物売りの来訪がなかったら帰ってきた小人たちが「おこりんぼだけ!?」「次は自分!」となって「ふん!」と言いながらもめちゃくちゃ嬉しがるおこりんぼの姿とかがあったのでしょうか。みたい。

そこからの物売りババーン!!は心臓に悪い。
でも物売りはもう出てくるだけで面白い。女王の時から魅力120%増しくらいになってる。

物売りが現れてから白雪姫が倒れるまで、物売りが画面に出ている間ずっとハラハラするんですよ。ずっとドキドキできる、すごくない?


そしてここからおこりんぼがナイトに変わるんですよ!!!

白雪姫の危機に気付いてからの行動が一番早く、そこからずっと先陣をきることになるのが今までの先生じゃなくおこりんぼなのが!!おこりんぼ、お前、お前〜〜!!

さらっと「白雪姫が女王に捕まったかな?」と確信をつくねぼすけも高ポイントです。


▼どこをみても恐怖

白雪姫の危機にこそ間に合いませんでしたが、小人たちは物売りを追い詰めることに成功します。

このとき物売り視点で追ってくる小人を映す場面があるのですがこの一場面があるかないか、すごく大きいと思うんですよね。
あんなに可愛かった小人たちが物売り目線のあのシーンではとても怖くみえました。

白雪姫を殺した魔女は恐ろしい存在ですが、魔女からしたってあの場面は恐ろしいんですよ。

念願かなって白雪姫を始末したものの後ろには怒り心頭で追ってくる七人もの小人、対する自分は一人の老婆です。
雷鳴轟く雨の中の崖、追われる魔女の焦りは相当のものだったでしょう。どうしよう、って言ってるしね。

白雪姫を殺した憎き魔女を追う小人、怒りに震える小人に追われる魔女、あのシーンはどちらの立場に立っても怒りや恐怖しかないです。更にそれを煽る嵐。
物語終盤にふさわしい緊迫感だと思います。


▼死の描写

食べかけのリンゴと手のみを描くことで白雪姫の全体を映すよりショッキングな印象を与えています。物売りの死に関しても死体を映さない同様の手法が取られていますね。
子供への配慮ももちろんあるのですが、死体を映さないことがより恐怖を煽る演出となっています。

ずっと物売りをつけ回していたハゲタカがゆっくりと舞い降り、その姿が雨にぼやけていくのはゾッとします。無音でゆっくり、っていうのがまた。

女王の地下室の死体も、白雪姫を逃した狩人だと判断できるアイテムをあえて置いていないんですよね。話の展開的に「おそらくそうだろうな」と解釈はできますが。
帽子だのなんだのであの白骨が彼だとアピールすることもできるのにあえてしない、想像の余地みたいなものを残している。それがいい。


▼王子様への批判

エピローグ、白雪姫の死後のストーリーが語られます。
雪が降ったりしている演出から白雪姫が死んでから月日が経っていることがわかりますね。

そしてここでもおこりんぼが心をかき乱して来る。
白雪姫の棺に花を捧げるときも、みんなは棺の周囲なのにおこりんぼだけは白雪姫の手に…
あの後、自分の名が刻まれたパイをみたおこりんぼの心情を思うと涙無しにはみられません。

そしてこのエピローグではキャラはほとんどセリフを話さず、BGMとナレーションだけで物語は進みます。
最初に書いたとおり「白雪姫」の最たる目的はもう達成されていますから。

この「王子様のキスで目覚める白雪姫」というラストが最近は面倒くさい批判にさらされてるんですね。

この結末のせいか「寝てる(死んでる)ときにいきなりキスする相手に恋はしない」「王子様は死体愛好家」なんて言われることがちょいちょいあります。が、少なくとも「D版白雪姫」においては全く検討違いだと思います。

最初に述べたように、白雪姫と王子はすでに結ばれているんです。このときが初対面じゃないんですよ。
白雪姫が城を追われたあの日から、王子はずっと白雪姫を探し続けているとしたら?

行方のわからなくなった恋人を探し続け、ようやく発見するも、恋人はすでに亡くなっていた。
(季節が巡っている演出や、ナレーションから王子が森にたどり着いたときは白雪姫の死後から時間が経っていることがわかります)
死してなお眠っているかのように美しい恋人に口づける。

王子のこの行動に批判的な人って王子と白雪姫がこの時点で初対面だと勘違いしているとか、二人はすでに結ばれた関係であることが抜け落ちてる、もしくは知らないのではと思います。

死体愛好家の点も、王子は「死体になった白雪姫」を愛したのではなく「生きている白雪姫」に恋をしたのです。
そもそも死体愛好家なら白雪姫が蘇ったことを喜ばないでしょうし、連れ帰りもしないでしょう。白雪姫が蘇ったことを王子はとても喜んでいるように見えます。


▼本当の「特別」

今度こそ幸せになるべく王子と白雪姫は小人に別れを告げ、ここで物語は終わりです。

あのおこりんぼも白雪姫とお別れ。

白雪姫が目覚めたとき=王子にキスをされたとき、白雪姫の手からは花が落ちます。
そう、ついさっきおこりんぼが白雪姫に捧げたあの花ですよ。
あの瞬間、おこりんぼと白雪姫の間の「特別」は終わりを告げます。白雪姫の「特別」は王子様ですから。

白雪姫の腕から花が落ちたときは白雪姫を守る役目がおこりんぼから王子に代わったとき、白雪姫が本当に「お姫様」になったときだと思っています。


でも別れのときもおこりんぼだけは字幕でも吹き替えでも名前を呼ばれてるんですよ!(諦めが悪い)

※おとぼけは字幕では「おとぼけさん」と表記されてますが吹き替えでは「元気でね」というセリフに置き換えられています


めちゃくちゃ長くなってしまいました。

昔からおこりんぼがすごく好きだった、というわけではないんですが深く観れば観るほどおこりんぼを好きにならざるを得ない。おこりんぼ、元気で幸せに暮らしてくれ…

本筋は童話に沿っていますけど、童話をそのままなぞっただけのものをわざわざ借金してまで作るわけないんです。
童話「白雪姫」をウォルト・ディズニーがすごく素敵に膨らませてできたものがこの「D版白雪姫」なので、あらすじ知ってるし、という理由で観たことない方はぜひ一度観てみてほしいです。

ディズニー ピーターパン

大人になることを拒否する子供たちが主役の話ですが「大人」代表である父ジョージ・ダーリングと犬のナナがかなりいいキャラです。両者の関係性も含め。

本人は威厳ある父親でいたいようですが、なんだかうまく決まらない。
カフスや胸当てはおもちゃにされるし転んでも家族は自分より犬のナナを心配する。

ナナは本当に優秀だし可愛いですよね。
ヘッドドレスをつけてひたむきに仕事をする姿がたまらないです。
ナナが悪いわけじゃないのに怒られて外に出されても自らを繋ぐ紐を差し出す姿には怒り心頭のジョージも毒気を抜かれてしまう。ディズニーの犬キャラの中でも屈指の可愛さ。

ジョージがナナを繋ぎながら小さく語りかける姿は、見ようによっては妻よりもナナの方がジョージの理解者であるかのようにも見えます。


序盤にピーターパンの話を空想だと切り捨てたジョージが、エンディングで空飛ぶ船を見て発するセリフのエモさ。



ピーターパンは「幼稚さ」の描写が本当にすごいです。

特にウェンディに嫉妬して意地悪するティンクや人魚たちはいかにも、ですよね。
けっこう陰湿かつ悪質なのに、咎められれば「からかっただけです〜」って。こういう子供、いる。

フック船長はじめ海賊やインディアンたちは外見こそ大人ですが、内面も大人…とは言いがたい。

フックは悪知恵は働きますが、腕を取られた腹いせという目的からピーターパンに固執し船員たちの「航海に出たい」という希望は無視するし平気で海に投げ落としたりするジャイアン的リーダーです。

インディアンもロストボーイたちの言い分を聞かず「娘が帰ってこなければ火炙り」という一方的な態度。

あの世界は精神的にみんな幼いんですよね。自分の言い分を通す人たちばかりです。
彼らがネバーランドという大人がいない国の住人だというなによりの証ですが。


そしてピーターパン。
周囲のロストボーイたちが幼い少年なので、その中心でリーダーシップもあり体の大きいピーターパンは一見「お兄さん」に見えますが、自分の意に背いたものは追放などやっていることはガキ大将と大差ありません。

また、たびたびフックにワニをけしかけるのは大人をからかう悪ガキの図です。
アニメなので超人的なアクションでフックは毎回命からがら逃げていますが、過去に片手を失っていますしフックからしたら冗談じゃないですよね。

ピーターパンは現実であるなら「遊び半分で友達を高所から突き落としたら大変なことになった」みたいな事故を起こしかねない、子供によくある危険意識の低さを感じさせます。

フックは確かに「悪いやつ」ではあるのですが悪いやつならいたずらにワニをけしかして命を脅かして笑いものにしていいのか、というとそんなことはなく。
そういう点からピーターパンが「ヒーロー」とか「王子様」みたいないわゆる正義側の存在では決してないことが伺えます。

フックと負けず劣らずどころかピーターパンの方があくどい、ずる賢いのではというシーンすら散見されるんですよね。


そんな彼に憧れネバーランドへとやってきたウェンディたちですが、初っ端からティンクの作戦で撃ち落とされそうになるわ人魚には陰湿な嫌がらせを受けて海に引きずり込まれそうになるわ。

そのときピーターパンはといえばティンクをいきなり永久追放しようとするし人魚から助けてくれるどころかいじめられるウェンディをみて笑ってるんですよ。

ティンクを爪弾きにしようとしたり自分を助けてくれないピーターパンは、ウェンディが思っていた憧れのピーターパン像とは違っていたのでしょう。
この時点でウェンディはネバーランドとピーターパンに少しガッカリしてしまいます。

「ピーターパン」というタイトルですが、この作品はウェンディがネバーランドという「大人のいない世界」へ来たことで自分は大人になるという変化を受け入れる物語です。

人魚の入り江からドクロ岩へ移動するウェンディの飛び方が少しぎこちないのは、飛ぶためには楽しいことを考える必要があるのに直前まで嫌な思いをしていたこと、タイガーリリーの誘拐という不穏な気配を感じていたことに加え、ピーターパンとネバーランドの「幼稚さ」を否定し始めていることの表れではないでしょうか。

ネバーランドの洗礼を受け「子供」であることのデメリットをウェンディはかすかに感じたのだと思います。


また、ドクロ岩でフックとピーターパンが戦う際にウェンディは「だめよ」とピーターパンを静止する言葉をかけています。
おそらくロストボーイたちならピーターパンを煽りはやし立てていたでしょう。

冒頭のティンクの件もですが、ウェンディは基本的に「協調」を求めていますよね。
人魚と仲良くしたかったし、意地悪されてもティンクを追放するのには賛成できないし、たとえフック船長でも殺したりはしてほしくない。
ウェンディは精神的にはもう大人なんですよね。

ピーターパンやロストボーイ、弟たちが持っている「無邪気な残酷さ」はもうウェンディには持てません。

一般的に女子の方が精神的な成長は早いといいますし、そもそもピーターパンがダーリング家に来ていたのもウェンディが弟たちに聞かせる物語が目当てでした。
「大人になるなんてダメだ」とウェンディをネバーランドに連れ出したピーターパンですが、彼自身ウェンディに母性のようなものを見出していたのではないでしょうか。

タイガーリリーを救出したピーターパン一行はインディアンの村で祭りに参加しますが、そこでウェンディはまたしても嫌な思いをしてしまいます。

楽しく踊っていたところ「女は薪を運べ」と踊ることを止められてしまうんですね。

ピーターパンも弟たちもロストボーイたちも祭りに夢中で誰も庇ってくれないどころか、一緒になってウェンディを召使い扱いする始末。
おまけにピーターパンはタイガーリリーにデレデレで、怒って一人隠れ家に帰るウェンディ。

そして彼らが隠れ家へ戻ってきたあと、決定的なことが起こります。

ウェンディは弟たちへ家へ帰ろうと説得しますがネバーランドが楽しい彼らはそれを拒否。
母親の話をすると下の弟マイケルが「お母さんってなんだっけ」と…。これかなり怖いですよね。

「楽しいことに夢中になって大切なものをなくしてしまう」という状況は「ピノキオ」のプレジャーアイランドを思わせます。

ウェンディはロストボーイたちに母親について教え、子守唄を歌います。
このとき、ウェンディはすっかり大人になってしまいました。ロストボーイたちは優しく諭すウェンディに母親の姿をみたのです。

子供部屋から卒業することを言いつけられ「大人になりたくない」と言っていたウェンディ。
望み通り大人になることがないネバーランドに来たことで逆にウェンディは大人に成長しました。

大人になんかなっちゃダメだ、と言ったピーターパンこそがウェンディを大人にしてしまった。


母親を想い、家に帰りたいと言い出したロストボーイたちに対してピーターパンは癇癪を起こし「勝手にしろ」とすねてしまいます。
流石は生粋のネバーランドの住人。

大人になったウェンディと、大人になることのないピーターパンはここで完全に住む世界が別れてしまいました。
ウェンディはピーターパンに別れを告げます。それは子供でいることへの決別。

しかしあんなに持ち上げていたピーターパンとあっさり別れてテンション高く隠れ家を出ていくロストボーイ&弟たち。やはり彼らはまだ子供だなぁと思います。なにか言いたげにピーターパンが去った後を見つめるウェンディとの対比がすごいですね。

このシーンはピーターパンが捨てられたようでちょっと胸が痛む。


隠れ家を出たところで海賊に捕まってしまうウェンディたち。

仲間になれば命を助けてやるというフックに我先にと駆け出すロストボーイたちにはもはや呆れる。彼らは人間的に未熟だから仕方ないんだけど!

彼らを一喝するウェンディにもう迷いはありません。 
ネバーランドへ来た当初フックを見た時には不安そうな顔をしていたウェンディですが、ピーターパンとの決別後にはロストボーイたちとは違い毅然とした態度で刃向かい海へ飛び込むことを選んでいます。
ウェンディが精神的に完全に自立した証でしょう。

海へ飛び込んだウェンディをピーターパンが救ってくれますが、お姫様抱っこなんですよね。すごく素敵なカットで大好きです。
ピーターパンのこと散々言っといてなんですが、これに関しては「こんなん惚れてまうやろ」としか言えないのでちょっと悪い男がモテるってこういうことなんだろうな。

あと、もうピーターパンはウェンディたちに妖精の粉をかけるつもりはないのだろうと思いました。もう彼らはネバーランドの住人ではなくなるから。

実際エンディングまでピーターパン(とティンク)以外のキャラクターが空を飛ぶシーンはありません。

フックを倒し海賊船でロンドンへ向かう際、ピーターパンがウェンディを「ご婦人(マダム)」と呼んだのは少し寂しくもありました。
出会ったときは礼儀正しくフルネームを名乗るウェンディに対して「ウェンディでいい」と言ってくれたのに…

ウェンディたちと海賊船に乗りロンドンまでやってきたロストボーイたちは「まだ大人になる準備ができていない」という理由でピーターパンとネバーランドへ引き返しています。

ウェンディがネバーランドでの出来事をすべて受け入れて憧れのピーターパンのイエスマンになっていたり、ネバーランドロストボーイたちと一緒になってはしゃいでいたジョンとマイケルだけだったらきっとロンドンへは戻ってこれなかっただろうな。


見返すとピーターパンのことをけっこうボロクソに言ってしまったのですが私はこの作品もピーターパンも大好きです。

彼を手放しで肯定することはできませんしするべきではないと思うんですが、それは私がもう大人だからなんですよね。
子供のヒーローであるピーターパンには大人からの肯定なんて不要なので、彼はあのままでいいんだと思います。


ピーターパンについて話をするとどうしてもインディアンの描き方や、インディアンの村で見られた男尊女卑的な描写の話にぶち当たるのですが…
「作品の修正や封印は不要」私個人の意見としてはこれだけは言いたいです。

差別によって苦しむ人たちを無視しようというわけではなく、批判されるシーンはそもそも差別しようとか貶めようという意図で組み込まれたわけではないと思うのです。ピーターパンに限らず、他のディズニー作品も同様に。
少なくともディズニーの「白雪姫」以降の長編アニメーション作品たちに悪意を込めて作られたものはないと思っています。


現在の視点でみれば問題のある表現だったとしても、その描写を削除することが差別の撤廃や解消に繋がるとは思えません。
「間違っていた、これはよくない表現だった」と思うのならむしろ「なかったこと」にしてはいけないです。
臭い物に蓋をするのではなく、それが当たり前だった時代があることを知るべきだし語り継ぐべきだと思います。

「みんなが駄目だと言うから駄目」ではなく「なぜいけないのか、どういう点がよくないか」を考え、多くの人が理解しないといずれ同じような間違いは繰り返されます。
シーンの削除や作品の封印は、考える機会を奪うだけじゃないかと個人的には思います。

こういった問題は日本人には感覚的にわかりづらいのもありますし詳しいわけではないのであまり偉そうなことは言えないのですが、少なくとも私はこういった理由で編集などは行わず当時の作品をそのまま観たいと思っています。